「沈黙」3…無力と万能

まだまだ続く、「沈黙」についての私の中の熱い想い。

今回は原作と映画の違いについて書きたいと思います。

(どちらがいい悪いという意味ではないことを、まずお断りしておきます)


私が原作と映画で最も違うと思った点。

それは主人公たちの自己認識です。

原作のはじめの方の若いロドリゴ司祭には、「万能感」がある。

自分が辺境・日本の切支丹を導いてやる、救ってやるという強い意志があり、

「高みから見下ろす」ような感じです。


けれどもその彼の万能感、彼の誇りは砂山が一粒ずつ崩れるように崩され、

ついには全く無力な姿になります。

そしてロドリゴの元師で、先に棄教したフェレイラ神父。

彼は故国のキリスト教会でも日本の切支丹たちの中でも、

まさに万能の存在だったことがあるのだろうと思われますが、

ロドリゴの目に映る棄教後の彼の姿は本当に卑屈で哀しいのです。


一方、映画「沈黙」では、最初からロドリゴにそこまでの万能感は感じられません。

むしろ「自分は無力かもしれない」、という内省を秘めているように見えます。

そして棄教後も、ロドリゴもフェレイラも表面的には確かに完全に屈しているけれど、

微かに毅然としたところが残っているのが感じられました。


無力と万能はまさに表裏一体です。

「万能感」が強いほど、あるいはそれを追い求めるほど、

それが崩れた時になすすべがなく、「無力感」も強くなる。

それが原作のロドリゴであり、フェレイラでしょう。


しかし自分の無力さに多少なりとも自覚的であれば、

「万能の自分」という幻想をどこかで手放すことができる。

そこから新しい生き方を見つけ、

それが結局は自分の”魂”(ともいえるもの)を救うことにもなる。

ロドリゴを演じたアンドリュー・ガーフィールドも、

フェレイラ神父役のリーアム・ニーソンも、

そして”じいさま”を演じた笈田ヨシさんも、

きっと深くそのことを知っているのではないかと思いました。


原作の「沈黙」は、今も私達にいろいろな示唆を与えてくれます。

映画「沈黙」と合わせて考えると、さらにいろいろな気づきがあります。

上手く表現できませんが、しつこくもう少し考えてみたいです。








この記事へのコメント