「沈黙」の意味

遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督の映画、
「沈黙 -サイレンス-」を観ました。

映像がとてもきれいで脚本も役者の演技も素晴らしいけれど、
すぐに「いいね!」とか「感動!」と反応できるような、
いわゆる”SNS映え”するタイプのものとは対極な作品です。

161分の長尺で客席は2割くらいしか埋まっていませんでしたが、
終わった後はまさに「沈黙」。
上映前は賑やかだった中高年のグループもカップルも静まり返り、
すぐには言葉が出て来ないようでした。

それはもちろん私も同じで、遠藤氏と河合隼雄先生の対談や、
河合先生の処女作「ユング心理学入門」に当初入れるために書かれたという
「沈黙」についてのコメント等は読んでいましたが、
恥ずかしながら原作そのものは未読。

取りあえずパンフレットを買って帰り、
その晩は映画を夢の中で繰り返し巻き戻して観て、
ひとつひとつのシーンそれぞれの登場人物について
自分がどう思うのかを考えていました。

原作を読んでからまた改めていろいろ書きたいと思いますが、
まず「沈黙」というタイトルについて、
パンフレットを読んで知ったことがありました。

切支丹の人々が凄まじい迫害を受けて次々に命を落としても、
神は何も言いません。
主人公のロドリゴ司祭は
「主よ あなたは何故黙ったままなのですか」
と苦悩します。
だから「沈黙」なのだと思われていますが、そうではないのです。

山根道公ノートルダム清心女子大学教授は
「原作者の『沈黙』に込めた思い」を寄稿し、
元々は「日向の匂い」というタイトルをつけていたところを、
編集者に「迫力がない」と言われて「沈黙」になったと書いています。
そして遠藤氏が「神は沈黙しているのではなく語っている」という
「沈黙の声」という意味
を込めての『沈黙』というタイトルが、
「神の沈黙を描いた作品」と誤解を招く原因となったことを悔やんでいた、
と記しています。
(確かに映画の中でも神は語っています。
けれども神の沈黙を描いた作品という「誤解」があればこそ、
やはり作品が国を越えて広く世界中で読まれたのだとも思えます)

また、「歴史に黙殺された弱者の声」と題して、
「沈黙」が誕生するベースとなったという「切支丹の里」(中公文庫)の中から
抜粋された文章が掲載されています。
遠藤氏は、崇高な殉教者という「強者」でなく
殉教者になれなかったり棄教した「弱者」に目を向けている。
そして彼らが黙殺され「沈黙の灰」の中に埋められたとして、
「私は彼等を沈黙の灰の底に、永久に消してしまいたくはなかった」
と書いているのです。

短い文の中で二度も「沈黙の灰」という言葉を使っている。
そこに遠藤氏の熱い想いが滲んでいる。
見捨てられた弱者を「沈黙の灰」から生き返らせたい。
遠藤氏のこの視点を持つことで、
映画も原作もより深く味わい読み解けるのではないかと思います。

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